何故、違いを見つけることが、そんなに大事だったのか。

あなたは、性差についてどう思いますか。

女の子と男の子、女性と男性は<身体面だけでなく、行動や態度、能力といった重要な側面においても異なる>と、私たちは、小さい時知らない間に叩き込まれて成長してきたように思います。そういえば、女性は男性よりも数学が苦手とか、空間把握力は男性のほうが高いなど聞いたことがあるかもしれません。

こんにちは、日本セルフエスティーム実践協会(JSELジェイセル)の小西です。 

このような情報は、世界の多くの科学者が、男女の「差異モデル」の研究結果として、科学的データで示したものでした。 

この“科学”というものが発見されてから、“科学的データという新しい世界は、未知の世界を解明するもの”として、社会は「これは、正しい答えなのだ」と、飛びついたのでした。 

私も含めて、科学的データに基づく結果を私たちは信じてしまうところがあります。なぜなら、「科学者という専門家が出した答えだから、正解に違いない」と鵜呑みにしてしまうからです。  

ところが、今まで信じられてきた、この男女の「差異モデル」ですが、2005年に、「男女に違いはなく、むしろ類似している」という新しい研究結果が「類似性モデル」として発表され、公刊されたのでした。

*

心理学者のジャネット・シブレィ・ハイデは、過去の「差異モデル」に対して、「類似モデル」の仮説を検証するために、過去に出されている「差異モデル」の研究結果から、7000以上を取り上げて調査し、仮説を検証しました。

心理学者ジャネット・シブレィ・ハイデは「男女は、心理学的変数のすべてではないが、そのほとんどで似ている「類似性モデル」という仮説を提唱した。つまり過去の男女は違うという「差異モデル」に挑戦する論文を公刊した。

『認知や行動に性差はあるか』より

クリティカル・シンキングから見えた「差異モデル」の実態

今までの論文は、男女の差異を検証するものばかりだったので、画期的な切り口といえますね。

なぜ、今このような「類似性モデル」が提唱されたのか。それは、過去の「差異モデル」が、思い込みや、ある人たちにとって都合の良い片手落ちの検証であったことを仮説から検証したからです。

このハイデの研究結果から、世界中にある科学者の「差異モデル」の研究結果は、彼ら自身の思い込みを持った仮説から、生み出されていたデータかもしれない。科学者もひとりの人間です。科学者自身の“ものの捉え方”に男女に対する偏りがあったのかもしれません。そうすると彼らの仮説そのものが、間違っていたのかもしれないと考えられますね。

「違っていて当たり前!」という視点から、「本当に違うの?」という視点に変わることで、ここまで異なるのかということです。

クリティカルに捉える

単に男女格差に反対するとか、同意するとかを議論する前に、まず、そもそも男女の違いはどういうものなのかを探求していくことが、重要なのだと思います。

なぜなら、男女の違いは、ヒトの偏った信念によって、生み出されたものだったと考えられるからです。

そのような差異が生まれたと言う根拠はあるのか、科学的データの結果は正しいものなのか、など、クリティカルな思考を持つことが、私たちには必要なのかもしれません。

歴史と共に作られた男女の違い

約2世紀前から、男女の違いは、世界の科学者たちによる研究結果の一つとして、生まれたのです。

現代の科学は、ヨーロッパのビクトリア時代の影響を強く受けている。ヨーロッパの科学的研究において、一番影響を持っていたのは、中流階級か裕福な白人男性だった。その時代の人たちは、ユダヤ・キリスト教の伝統に強く影響されていた。

宗教は何世紀にもわたり、人間の性質を説く権威であったが、19世紀には、“科学的方法”が世界を発見する方法として人気を集めた。世界の性質について知りたいとき、正しい行いについて知りたいとき、人々は宗教指導者のところに支持を求めに行くのではなく、科学者に答えを求めるようになった。

科学は高い尊敬を集めるようになり、ある面で宗教に置き換わったとさえ言われるようになった。

過去2世紀の間、西側諸国の科学者のほとんどは、ある種の強力な信念によって特徴づけられる文化の出身者であった。その信念の中には、女性や白人以外の人間が知的に劣っているというものも含まれており、これが研究の方向性に深刻な影響を及ぼしたのである。実際、科学者のほとんどは、恵まれた立場にある階級・人種・性別の人間だった。

彼らが、自分たちの集団は優れているという考え方を広めるようなリサーチ・クエッションを選んだのは、驚くことではない。たとえば、男性が優れた知的能力を持っているかどうかを確かめるのではなく、男性が知的に高い能力を持っているのは、なぜなのかを究明しようとすることで、科学者は現状維持に関与してきたのである。

(31~32page.『認知や行動に性差はあるか』より)

なぜ、西側諸国では性差に関して、そこまで気にかけてきたのでしょう。

ここでは深く掘り下げませんが、アダムとイヴの話から始まったと考えられているようです。男性から見たら、女性は得体のしれないものと思ったのかもしれません。

宗教的な考えから生み出された男女のあるべき姿は、社会に影響を与え、男性は女性よりも知的に高い能力を持っているという答えを出してきた。

そのような歴史の中で作られた前提が、時も変わり科学の時代になったはずなのに、いままでの前提を鵜呑みにしたままだった。疑問も持たずに、「男女格差」を正当化したまま、つい最近まで信じられてきたわけです。疑う人がいても、誰も声に出せない社会だったのかもしれません。

ヒトは、カテゴリー化したがる

現代でも私たちは、常にイメージを描きながら生活しています。たとえば、人間とそれ以外、人間の中でも男性と女性、子供と大人。日本人と外国人。人は、年齢、社会階層、行動、所属、言語、外見、障害に基づくものなどを手掛かりにして、カテゴリー化をおこなっています。

ヒトは、自分と違うものは、よくわからないから不安になる。危害を加えるかもしれないと判断する。危険なものを排除して、安全・安心したい。つまり、安心できるように「カテゴリー化」し、それに伴って形成される「ステレオタイプ」に感情が伴ったものを偏見といいます。偏見はあくまで感情的、直感的なもので、本人の自覚なしに生じてしまいます。

カテゴリー化によって、ステレオタイプが形成され、偏見や差別が生まれてしまう

一つのカテゴリーとそれ以外との差異を強調することで、違いが明瞭になり、より単純なイメージが描けることで、すぐに判断して行動できるようになるからです。このようにカテゴリー化によって、ステレオタイプが形成されることになります。このステレオタイプに感情が伴ったものを偏見ステレオタイプや偏見を根拠に、接近回避などの行動として現れたものを差別と社会心理学では定義しています。

『偏見や差別はなぜ起こる?』より抜粋

互いの違いを分かりあうことが、偏見や差別を低減する

D&Iでは「みんな違ってそれでよい。」とよく言われます。違いがあれば、そこには偏見や差別が生まれやすいわけです。その違いを客観的に捉えて、すぐに受け入れられるものではありません。自分の感情がその違いに影響を与えるからです。差異モデルもそうであったように、互いの違いを見ているだけでは、偏見や差別が生まれてしまいます。

クリティカルな「4つのかかわり方」で、偏見や差別を乗り越えて、互いの違いを分かりあう

1.地位の対等性です。偏見の多くは相手が劣っているという信念を含んでいるので、互いに対等な立場であることが望ましい効果を生みます。

2.目標の共有と協力です。協力しなければ達成できないような共通する目標が与えられることも、肯定的効果を持つ重要な条件になります。

3.法律や制度、社会的規範などの枠組みがあることも効果的な対話を生みだすといえます。

4.親密な対話、つまり対話の頻度、期間、内容は、相手にとっても十分な情報を得て、関係性を構築できることが求められます。

*

互いに得られる情報が多くなるほど、ステレオタイプや偏見が誤解であることに気づき、共感や好意的関心が増えて、信頼感がうまれ相手の態度も改善されやすくなります。

*

今回は、「差異モデル」の歴史を通して、自らクリティカルに考えることの必要性をお話ししました。

あなたの前に、すでに答えがあったとしても、その答えの根拠は何だろうかと、あなたの中に疑問があるなら、今ある答えを鵜呑みにしないで、クリティカルに考えるという行動をとりましょう。

相手と差異があると思うのなら、接触機会を増やす。つまり十分な情報を分かちあい、対話する機会を作り、互いをより深く認識することで、理解しあえると思います。

*

差異を気にして距離を取って敵対するのではなく、差異を肯定的に理解しあうことが大切だと思っています。簡単ではないことですが、一緒に取り組んでいきましょう。

*

<引用文献:『認知や行動に性差はあるのか 科学的研究を批判的に読み解く』 ポーラ・J・カプラン、ジェレミー・B・カプラン著、森永康子訳 北大路書房><参考文献:北村英哉・唐沢譲編著(2020) 『偏見や差別はなぜ起こる?』 ちとせプレス>